住吉神社例大祭 大都心で町を引き継いできた佃住吉講
【地域社会】 - 2012年09月15日 (土)






佃住吉講の明日を担う若衆の記録
摂津国西成郡佃村・大和田村の漁民が徳川家康の命で移住した佃住吉講佃島の築島は、1644年(正保元年)。江戸・明治・大正・昭和と隅田川で隔てられてきた佃島は、つくだ大橋の架橋・埋め立てにより明石町と繋がり、月島渡陸続きになった。
住吉神社例大祭を担う佃住吉講は、現佃一丁目の一部(上町)・二部(下町)・三部(向町)に別れている。各部2本づつ立てる大幟柱は30Mを越え、人力の限界を試されるような大きさで、町中の人が集いを重ね、掘り起こし・立て・埋め戻してきた。
大柱の吊り上げにだけにはクレーンが入っているが、横持ちは人が抱えて運ぶ。吊り上げ時の支えも若い力が頼り。世話人・大若衆・若衆、女衆が、それぞれ分担をする。神酒所などの小屋がけも、とび職・町火消しと伴に町衆が行なう。一丁目町内の交通整理も警察から任されている。
取材・記録:まちひとサイト
所感>漁業に就く世帯は僅かになったが、江戸から明治・大正・昭和・平成と、「佃」の生活文化を守ってきた知恵が、これからのコンパクト・シティ化の時代の街暮らしの手がかりにならないかと考える。
沽券で纏まっていた長屋は、大規模マンションの1フロアに置き換えられる。歩いて往き来できる数階は、被災時に足が及ぶ単位。しかし多様な生活には、職住・企業ー商店ー住宅の往き来が、暮らしを豊かにし、また防災投資・管理の負担をへらす。個人も世帯も、マンション棟を越えた繋がりを多重に持つことで、都会らしい多様なつながりが得られ、また独居世帯は、何らかの見守り体制が必要となる。
住吉神社例大祭は、息災と繁栄を祈る祭りとして、佃から月島・勝ちどき・豊海・晴海へと町をつないでいる。大都市のなかに安全・安心を支える地縁社会を作り直すには、分業・専業者に任せっきりにはできない。汗をかきあい、声を交わし合う、地域の当事者同士の身近な活動が手がかりではないか?