「協働」から’協働’へ
【地域社会】 - 2010年06月01日 (火)
<なぜ「協働」が叫ばれるか?>
「新しい公共」とか「協働」とか、もう一度’社会’を見直そうという気運が高まっています。
それは、高度成長期が終り、、社会に必要な組織・施設道具・活動者の資金を、新たに作りつづけるのでは、解決できない、成熟の時代に入ったからです。企業ではリストラ、行政では事業仕分け、そして工業化・都市化によるの移住単位である家族・世帯が親族から離れ、少子高齢化により独居化を進めている背景があるからです。
<これまでの地域社会は?>
自治会(町会・商店会・・)・行政・企業は、新たな課題に取り組むどころか、いままで出来ていたことが出来なくなっています。
終身雇用と福利厚生で村社会の気風が持ち込まれていた企業は、社内教育をするゆとりを失い、終身雇用も止めるとkろが多くなりました。機械やプログラムで高度化した製品・サービスをだれにでも出来る仕事だけに縮小したり特化して、世界市場で戦わざるを得ません。その結果、人の流動性を高め、地域との縁を薄くしがちです。
地域の商業・サービス業は、大規模化・プログラム化された広域事業者・チェーン店にたいする競争力を失い、後継者も得られず、衰退しがちです。移民による全員参加で街をつくってきた米国では、企業の地域参加は当然です。しかし日本では、故郷から工業地・商業地へ就職し、企業は生産・流通の最適地を求め移動し、地域との関わりは最小限になりがちです。社会貢献は事業目的に沿ったことだけに限らざるをえません。中央区社会貢献企業連絡会「中央ぷらねっと」のような、大企業の地域貢献を組織化している活動は珍しく、大企業は広域市場にそった広域で目立ちやすい貢献を広報して事業促進を図ろうとするのが原則です。

写真は、中央ぷらねっと 4月例会
<中央区の’協働’の伝統>
中央区の’協働’は、江戸時代からのものです。幕藩時代の官僚としての旗本と産物を扱う藩邸などの武士の屋敷が、八重洲・京橋から拡がっていました。江戸城あたりの宝田村・千代田村の住民が日本橋・神田に移り、日本橋を中心とした商人の地域、神田を中心とした職人の地域へと機能分化が進みました。士農工商の身分制度での士・工・商が、それぞれの立場ながらに街を維持し・楽しんだ歴史があります。その連携のエネルギーは、当初は徳川幕府の施策でしたが、防衛とは違い、火事・地震への備え・復興からでもあったでしょう。全国の特産物を消費する商業が経済を主導するに従って、祭り・芸能・遊興の地として身分を越えた’協楽’など、江戸の都市暮らしを支えたのでしょう。振り袖火事から、江戸・明治・大正・昭和と、芸能・遊興の地は、浜町・人形町から吉原・柳橋・新橋、新富町・浅草・有楽町・新宿など、移り・広がりながらも、京・浪速とは違う都市文化を育ててきました。災害と文化を両極として、都市の協働・享楽がなりたっていたという考え方もできるでしょう。
<農村から都市集中・拡大から都心回帰>
明治・大正・昭和と西欧化・近代化は、都市も職業も機能化・分化を進め、モノを中心とした経済は、運輸・交通を軸に都市集中を進めました。通信・情報化が進み、現代は、機能的なデータ交換だけでなく、メディアに表現できない人との触れ合い・関わり合いこそさらなる情報価値(差異による商品化)を生む時代に入りました。経済的にも都心集中・都心回帰が進み、少子・共稼ぎ、高齢化・独居世帯は、さらに交通の利便の良い場所を求めます。
<新たな「協働」、日本の'協働’の歴史>
新たな「協働」は、この今、行政・企業の地域活動力が縮小し、すべてが税や有料サービスでは購い切れなくなった時代に言われている言葉です。第三セクター、NPO、PFI、PPP(Public Private Initiative)、など、いろいろな社会的活動の組織化が試されてきました。行政の高齢者福祉が、介護保険制度として、行政の保険サービスになったのは、措置から選択サービスの一例です。江戸時代の庄屋・家主の世話、高度成長期の行政措置・企業の福利・厚生サービスが、今は保険制度に沿った目的別保険料と担保内サービスに代わったのです。
欧米でも日本でも、都市化は劣悪な環境・生活条件を生みましが、以前には帰る田舎がありました。英国の田園都市構想、米国の車を前提とした郊外住宅地開発なども、同様です。パリのような都市生活は、長いバカンスを必要ともしました。そこで、親族も故郷とも縁が薄くなり、過密な都会が、個人中心の社会風潮となり、村社会を持ち込んだ職域がゆとりを失い、人と人が互いの為に動く喜びを感じ得なくなってきたのが現代です。また欧米のような異文化・異民族の生活背景を異なる人とのコミュニケーションの力も付きにくく、契約社会化のなかで、孤立し萎縮しがちです。
働くことと精神の充実を分けて考えがちなのがキリスト教で、西欧・米国文化では、苦労して働き・祈りと娯楽で生き返るような風潮が感じられます。南北に細長い島国で、四季おりおり変化あるわずかな資源を、お互いに殺し合うのではなく、分かち合って生き延びてきた日本では、働き合うことと生き延びて喜び合うことが一緒でした。労働を商品化しきらない生活では、協働は、当然だったのです。日本橋では、同業者が町を構成し、競合しつつ支えあう、自律と共存のバランスは、日本のルネッサンスといわれた関西商人の京都・朝廷文化とは異なる気風が写されてきたものでしょう。そのゆとりはやはり、海運の発達による資源と市場の拡大が背景にあったはずです。
<働くこと→労働、広域通貨→互いに束縛しあわないことが、’協働’の土壌を失わせた。>
働くことが通貨を得ることへとすり替わったのは、通貨が束縛されない価値の交換・蓄積手段だからです。サービスの交換:互恵は、その場では終わらなで、人と人の関わりをもってしまい、義務をもってしまう。義務を束縛だと感じ、頼られることを負担だと考えれば、全てを通貨による'自由’な関係を求めます。目の前の能力・成果に比例しない世襲的身分・利権社会から逃れて都会生活を求めたはずだと。その通貨依存は、税金とサービス購入で、行政と企業から購入すればいい社会へと向かいます。しかし、拡大再生産はいつまでも続かない。かっての植民地時代のように、海外に資源を求め、工業時代のように海外に加工品の消費を求めて拡大できる余地は少なくなりました。高齢化は、退職後も長く生き、年金は目減りし、必要なサービスを購入する必要が増えます。それが先払いの税か、後払いの商品サービスの違いにせよ。
<’協働’の組織化は、いろいろ>
拡大再生産をしない組織としてNPOが、認められ、税制優遇を受けることで、増えました。移民社会の米国では、異なる民族・文化背景により契約を前提とした社会で、街づくりは住民・企業の義務ですし、寄付は宗教的な習慣でもあります。日本では、明文化する必要ない同一言語・習慣のなかで、この100年の成長をで遂げた’村社会’でした。契約という成果合意ではなく、努力合意により自然の脅威に立ちむかい・自然にそって暮らす文化が根付いています。日本のNPOは、過剰な条件と手続きと認定を経ないと、て寄付金には税金がかけられています。社会的活動組織は、NPOだけではなく、協同組合も企業も、経理を公開し・社会的だと認められれば、社会貢献型の法人です。情報ネットワークの普及した現代では、実質的な情報公開や参画が可能な時代になっています。指定管理者制度は行政業務の外部化の一つですが、外部化は、内部との緊密なコミュニケーションが必要となります。出しっぱなしは、業務の硬直化や偏向を生みます。目的に沿った機能的組織化をして活動の経過・成果を共有しないと、誰のための事業か分からなくなります。政府の事業仕分けをWeb中継してみると、社会的組織活動の課題や改良点がよく分かりました。情報追求と情報公開は、相互に必要なもので、市民が任せっきりだったり、利害関係者が情報を隠してきた結果です。なんとなくそうだろうと訳知りを自負して、何もしないでいることがあのひずみを助長してきたのです。
<現代の協働の再発見と持続化>
現代の協働は、NPOなど、協働を機能化した法人をつくることばかりでなく、これまでの’協働’のDNAを探り、再発見し、地域ごとの経済・文化に沿った持続化をすることなのでしょう。都市と農村・山村・漁村は違います。工業都市と商業都市も違います。大都市都心と郊外も違います。複層化した日本経済・文化は、それぞれの地域に沿った協働の持続化の仕組みの萌芽がでてきているはずです。
中央区社会福祉協議会は、従来の福祉の領域を越え、子育てから就労・地域事業振興まで、行政・企業活動の隙間へと活動範囲を拡げざるをえなくなっています。このブログ左のリンクには、社会福祉協議会が委託・運営している多くの
サービスが並んでいます。そして、さらに地域生活・事業に必要な活動が増えているのです。
ですから、この地域の協働の再発見のために、互いにやっていることを、記録し、知らせ合い、理解し、連携し、持続化することを、一つ一つ、日々の家事のように進めてゆく必要があります。その日々を繰り返す中に、ささやかな変化にも気付き、喜び合える文化が、日本のわび・さび・アワレ・アッパレに、あります。身近なことに気付き・関わり・解決し・喜びあうとこそ現代の’協働’です。

写真は、2010年3月ボランティア交流会での名刺交換ゲームの様子
そんな再発見の事例を、
「ちゅうおうボラネット」協同ブログでも、見かけました。
いろいろな事
「新しい公共」とか「協働」とか、もう一度’社会’を見直そうという気運が高まっています。
それは、高度成長期が終り、、社会に必要な組織・施設道具・活動者の資金を、新たに作りつづけるのでは、解決できない、成熟の時代に入ったからです。企業ではリストラ、行政では事業仕分け、そして工業化・都市化によるの移住単位である家族・世帯が親族から離れ、少子高齢化により独居化を進めている背景があるからです。
<これまでの地域社会は?>
自治会(町会・商店会・・)・行政・企業は、新たな課題に取り組むどころか、いままで出来ていたことが出来なくなっています。
終身雇用と福利厚生で村社会の気風が持ち込まれていた企業は、社内教育をするゆとりを失い、終身雇用も止めるとkろが多くなりました。機械やプログラムで高度化した製品・サービスをだれにでも出来る仕事だけに縮小したり特化して、世界市場で戦わざるを得ません。その結果、人の流動性を高め、地域との縁を薄くしがちです。
地域の商業・サービス業は、大規模化・プログラム化された広域事業者・チェーン店にたいする競争力を失い、後継者も得られず、衰退しがちです。移民による全員参加で街をつくってきた米国では、企業の地域参加は当然です。しかし日本では、故郷から工業地・商業地へ就職し、企業は生産・流通の最適地を求め移動し、地域との関わりは最小限になりがちです。社会貢献は事業目的に沿ったことだけに限らざるをえません。中央区社会貢献企業連絡会「中央ぷらねっと」のような、大企業の地域貢献を組織化している活動は珍しく、大企業は広域市場にそった広域で目立ちやすい貢献を広報して事業促進を図ろうとするのが原則です。

写真は、中央ぷらねっと 4月例会
<中央区の’協働’の伝統>
中央区の’協働’は、江戸時代からのものです。幕藩時代の官僚としての旗本と産物を扱う藩邸などの武士の屋敷が、八重洲・京橋から拡がっていました。江戸城あたりの宝田村・千代田村の住民が日本橋・神田に移り、日本橋を中心とした商人の地域、神田を中心とした職人の地域へと機能分化が進みました。士農工商の身分制度での士・工・商が、それぞれの立場ながらに街を維持し・楽しんだ歴史があります。その連携のエネルギーは、当初は徳川幕府の施策でしたが、防衛とは違い、火事・地震への備え・復興からでもあったでしょう。全国の特産物を消費する商業が経済を主導するに従って、祭り・芸能・遊興の地として身分を越えた’協楽’など、江戸の都市暮らしを支えたのでしょう。振り袖火事から、江戸・明治・大正・昭和と、芸能・遊興の地は、浜町・人形町から吉原・柳橋・新橋、新富町・浅草・有楽町・新宿など、移り・広がりながらも、京・浪速とは違う都市文化を育ててきました。災害と文化を両極として、都市の協働・享楽がなりたっていたという考え方もできるでしょう。
<農村から都市集中・拡大から都心回帰>
明治・大正・昭和と西欧化・近代化は、都市も職業も機能化・分化を進め、モノを中心とした経済は、運輸・交通を軸に都市集中を進めました。通信・情報化が進み、現代は、機能的なデータ交換だけでなく、メディアに表現できない人との触れ合い・関わり合いこそさらなる情報価値(差異による商品化)を生む時代に入りました。経済的にも都心集中・都心回帰が進み、少子・共稼ぎ、高齢化・独居世帯は、さらに交通の利便の良い場所を求めます。
<新たな「協働」、日本の'協働’の歴史>
新たな「協働」は、この今、行政・企業の地域活動力が縮小し、すべてが税や有料サービスでは購い切れなくなった時代に言われている言葉です。第三セクター、NPO、PFI、PPP(Public Private Initiative)、など、いろいろな社会的活動の組織化が試されてきました。行政の高齢者福祉が、介護保険制度として、行政の保険サービスになったのは、措置から選択サービスの一例です。江戸時代の庄屋・家主の世話、高度成長期の行政措置・企業の福利・厚生サービスが、今は保険制度に沿った目的別保険料と担保内サービスに代わったのです。
欧米でも日本でも、都市化は劣悪な環境・生活条件を生みましが、以前には帰る田舎がありました。英国の田園都市構想、米国の車を前提とした郊外住宅地開発なども、同様です。パリのような都市生活は、長いバカンスを必要ともしました。そこで、親族も故郷とも縁が薄くなり、過密な都会が、個人中心の社会風潮となり、村社会を持ち込んだ職域がゆとりを失い、人と人が互いの為に動く喜びを感じ得なくなってきたのが現代です。また欧米のような異文化・異民族の生活背景を異なる人とのコミュニケーションの力も付きにくく、契約社会化のなかで、孤立し萎縮しがちです。
働くことと精神の充実を分けて考えがちなのがキリスト教で、西欧・米国文化では、苦労して働き・祈りと娯楽で生き返るような風潮が感じられます。南北に細長い島国で、四季おりおり変化あるわずかな資源を、お互いに殺し合うのではなく、分かち合って生き延びてきた日本では、働き合うことと生き延びて喜び合うことが一緒でした。労働を商品化しきらない生活では、協働は、当然だったのです。日本橋では、同業者が町を構成し、競合しつつ支えあう、自律と共存のバランスは、日本のルネッサンスといわれた関西商人の京都・朝廷文化とは異なる気風が写されてきたものでしょう。そのゆとりはやはり、海運の発達による資源と市場の拡大が背景にあったはずです。
<働くこと→労働、広域通貨→互いに束縛しあわないことが、’協働’の土壌を失わせた。>
働くことが通貨を得ることへとすり替わったのは、通貨が束縛されない価値の交換・蓄積手段だからです。サービスの交換:互恵は、その場では終わらなで、人と人の関わりをもってしまい、義務をもってしまう。義務を束縛だと感じ、頼られることを負担だと考えれば、全てを通貨による'自由’な関係を求めます。目の前の能力・成果に比例しない世襲的身分・利権社会から逃れて都会生活を求めたはずだと。その通貨依存は、税金とサービス購入で、行政と企業から購入すればいい社会へと向かいます。しかし、拡大再生産はいつまでも続かない。かっての植民地時代のように、海外に資源を求め、工業時代のように海外に加工品の消費を求めて拡大できる余地は少なくなりました。高齢化は、退職後も長く生き、年金は目減りし、必要なサービスを購入する必要が増えます。それが先払いの税か、後払いの商品サービスの違いにせよ。
<’協働’の組織化は、いろいろ>
拡大再生産をしない組織としてNPOが、認められ、税制優遇を受けることで、増えました。移民社会の米国では、異なる民族・文化背景により契約を前提とした社会で、街づくりは住民・企業の義務ですし、寄付は宗教的な習慣でもあります。日本では、明文化する必要ない同一言語・習慣のなかで、この100年の成長をで遂げた’村社会’でした。契約という成果合意ではなく、努力合意により自然の脅威に立ちむかい・自然にそって暮らす文化が根付いています。日本のNPOは、過剰な条件と手続きと認定を経ないと、て寄付金には税金がかけられています。社会的活動組織は、NPOだけではなく、協同組合も企業も、経理を公開し・社会的だと認められれば、社会貢献型の法人です。情報ネットワークの普及した現代では、実質的な情報公開や参画が可能な時代になっています。指定管理者制度は行政業務の外部化の一つですが、外部化は、内部との緊密なコミュニケーションが必要となります。出しっぱなしは、業務の硬直化や偏向を生みます。目的に沿った機能的組織化をして活動の経過・成果を共有しないと、誰のための事業か分からなくなります。政府の事業仕分けをWeb中継してみると、社会的組織活動の課題や改良点がよく分かりました。情報追求と情報公開は、相互に必要なもので、市民が任せっきりだったり、利害関係者が情報を隠してきた結果です。なんとなくそうだろうと訳知りを自負して、何もしないでいることがあのひずみを助長してきたのです。
<現代の協働の再発見と持続化>
現代の協働は、NPOなど、協働を機能化した法人をつくることばかりでなく、これまでの’協働’のDNAを探り、再発見し、地域ごとの経済・文化に沿った持続化をすることなのでしょう。都市と農村・山村・漁村は違います。工業都市と商業都市も違います。大都市都心と郊外も違います。複層化した日本経済・文化は、それぞれの地域に沿った協働の持続化の仕組みの萌芽がでてきているはずです。
中央区社会福祉協議会は、従来の福祉の領域を越え、子育てから就労・地域事業振興まで、行政・企業活動の隙間へと活動範囲を拡げざるをえなくなっています。このブログ左のリンクには、社会福祉協議会が委託・運営している多くの
サービスが並んでいます。そして、さらに地域生活・事業に必要な活動が増えているのです。
ですから、この地域の協働の再発見のために、互いにやっていることを、記録し、知らせ合い、理解し、連携し、持続化することを、一つ一つ、日々の家事のように進めてゆく必要があります。その日々を繰り返す中に、ささやかな変化にも気付き、喜び合える文化が、日本のわび・さび・アワレ・アッパレに、あります。身近なことに気付き・関わり・解決し・喜びあうとこそ現代の’協働’です。

写真は、2010年3月ボランティア交流会での名刺交換ゲームの様子
そんな再発見の事例を、
「ちゅうおうボラネット」協同ブログでも、見かけました。
いろいろな事